君の可能性 なぜ学校に行くのか [読書]
1970年に書かれた本である。小学校の校長をしていた斎藤喜博が退職した後に書いた、中高生への教えであり、自分に言い聞かせる言葉であり、大人たちへのメッセージである。
内容に時代背景の古さを感じる部分はあるが、現代と何ら変わらぬ教育の問題を感じる。学校で貼られたレッテルに、可能性溢れる子どもたちはのっぺらぼうのような顔に変えられて、大人になっていく。可能性とは、芋ずるのように一つのものから次々と引き出されていくが、どんな可能性を学校で教師に引き出されるかによって可能性の宝庫である子どもの未来が変わってしまう。努力することで、自分自身を変えることが大切であり、辛いときに諦めずに努力し続ける子達を学校という場所でつくることができるというのである。
学校で子どもたちが集まり、刺激しあいながら、教師によりより良い方に伸ばされていく。努力できることが能力があることで、自分自身を変えていくことが立派であり、貧しくとも豊かに生きる子を美しという。そしてそれは学校だからつくることができる人なのだと。
さて、感染症対策で学校に行かない子達にタブレットで授業をする今、学校に求められるはやはりは人と人と学びあいなのだと思うが、どれだけの学校がそういう教育に重きを置いているのだろうか。
内容に時代背景の古さを感じる部分はあるが、現代と何ら変わらぬ教育の問題を感じる。学校で貼られたレッテルに、可能性溢れる子どもたちはのっぺらぼうのような顔に変えられて、大人になっていく。可能性とは、芋ずるのように一つのものから次々と引き出されていくが、どんな可能性を学校で教師に引き出されるかによって可能性の宝庫である子どもの未来が変わってしまう。努力することで、自分自身を変えることが大切であり、辛いときに諦めずに努力し続ける子達を学校という場所でつくることができるというのである。
学校で子どもたちが集まり、刺激しあいながら、教師によりより良い方に伸ばされていく。努力できることが能力があることで、自分自身を変えていくことが立派であり、貧しくとも豊かに生きる子を美しという。そしてそれは学校だからつくることができる人なのだと。
さて、感染症対策で学校に行かない子達にタブレットで授業をする今、学校に求められるはやはりは人と人と学びあいなのだと思うが、どれだけの学校がそういう教育に重きを置いているのだろうか。
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